子午環- 盛岡・旧石井県令邸
ヒカリアレト vol.1
浅見貴子・平体文枝・本田恵美
2017年10月16日-11月4日
盛岡で考えたこと
大野正勝(岩手県立美術館 上席専門学芸員※)
(2017年当時、現・那珂町馬頭広重美術館 館長)
旅行(移動)とは不思議なもので、ホームグランドとは異なる場所に身を置くことでふだんとは少し違う自分自身を感じることができる。旅は電車による移動がちょうどいい。飛行機では隔離された機内に何時間も居てやっと到着地に着いても、その土地の時空間とホームグランドの時空間とが隣接してしまい、いつもの居場所や生活感との距離や隔絶感というものを感じにくい。旅先の地がホームグランドからどれだけ遠く、またいつもの自分とどのように違うのかということを実感しにくいのである。一方、電車の場合は車窓に連続的に現れる景色を十分に体験して着いた土地なので、そこに居る自分はいつもの自分とは少し違っていながらも、どこかいつもの自身の意識の延長上の場所に居るような気もする。例えばそんな自分が、東京ではなく住んだことのない盛岡で開催された展覧会に自作を出品する。何を思い感じ、そして考えるだろうか。展覧会を見てくださった盛岡の人たちに何か新鮮なものを感じ取っていただけたかどうかということの他に、盛岡にある明治期の洋館で作品を展示して感じ考えることは何だろうかと気になる。それは混沌としているのかも知れないけれど、実際にその洋館・旧石井県令私邸に展示された平体さんと浅見さんにその思いを語ってほしい。そして二人のその思いに何を感じるのか本田さんにはそれを語ってほしい。旅先の街や自然、人々との交感、交流とはそういうことなのではないかと思うのである。
この展覧会を通じて私は3人の女性作家たちの鼓動を少し感じ取ることができたように思う。それは各々の表現を通じて伝わってくる抽象的なもので簡単に言葉にはしにくい。絵の中の「地」にあたる部分をとても大切にしている平体文枝さんの画面は「地」に彼女自身を感じるのである。ドローイングのような「図」はどうかというと、意識的ではない描き方がなされていて平体さんの個人的なものがたくさん含まれた「地」が相対化され、作者と少し距離を取って画面を客観的に見ることができるのである。墨だけで描いているのだけど浅見貴子さんのその優れた筆法によって、そこに光が踊り揺らめいているのではないか、そう感じられる浅見さんの画面。その光は、植物が持つ生命力の在りようでもある揺らめきや独特のリズムによる「気韻生動」というようなもの。言い換えれば浅見さんの生の「気韻生動」でもあるのではないだろうか。墨のみだからこそ実現できる世界なのだろう。ふたりの作品はそれぞれの生を感じさせてくれるけれど本田恵美さんの白い「天心」のような立体作品も素のままの本田さんの柔らかな生のようなものが伝わってくる。「天心」そのものが本田さんの生そのものでもあるように。その形の内部で、作者本田さんは継続的にその時その時の女性としての自分自身の生の姿を感じ取ろうとしているように思う。そんな本田さんと、平体さん浅見さんとの共感というものは何だったのだろう。あるいは共感ではなく違いが意識されたのだろうか。
この展覧会に参加するにあたって抱負のように語られた平体さんの言葉が印象に残った。「わたしは具体的に何かを描いているわけではないですが、わたしの作品を観る人が、ああ同じ現代(いま)を生きていると深く感じられるような、そんな絵が描けたらと願います」。
※(2017年当時、現・那珂町馬頭広重美術館 館長)
会場:旧石井県令邸 (岩手県盛岡市)
主催:旧石井県令邸芸術交流プロジェクト
協賛:公益財団法人朝日新聞文化財団
株式会社東京組
シリウスグループ
後援:岩手日報社
ベルギー王国大使館
伊藤建設株式会社
協力:ギャラリーカメリア
TEAM KANESAKU(Edit&Design)