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展覧会11日目_小島敏男展

ギャラリーナユタさんと合同で開催いたしました小島敏男展は昨年5月でした。個人的に密かに教授とお慕いしている小島さんのお誕生月でもある5月。展覧会に向けた取材のため、ナユタさんと群馬のアトリエにも寄せていただき、周辺を少し散策したこと懐かしく思い出されます。

 

彫刻作品をメインに制作される小島さんによる、素朴な軽やかさのなかに重厚な哲学を感じるリトグラフをお飾りのA様宅が本日の展覧会会場です。中央の額がナチュラルな木で作品サイズがひとまわり小さいことで、同じ大きさの黒い額と並べても軽やかでリズムが生まれて素敵ですね。

 

A様はお母様も展覧会をご覧くださる方で、よく一緒に巡られていたそうです。就職しておひとりでの生活となったお部屋に飾っていただいており、リモート会議でお部屋のバックの作品がチラリと映り込むと、作品にご興味をお持ちくださる方がいらっしゃるとのことです。思いがけず嬉しいお知らせでまで伺うことができました。

 

小島敏男
「彫刻 素描 写真」 
2019年5月21日〜6月2日 より

 

左:「鳥」  ed.1/3 

2018年  リトグラフ

 

中:「無題」 ed.1/4

2017年  リトグラフ

 

右:「後姿」 ed.1/3 

2018年  リトグラフ  

 

 

 

 

◯ご購入いただいた動機

絵の雰囲気がとても素敵だから。はっきりと主題が描かれてはいませんが、じっと見ていると、かなり細かい輪郭まで浮かび上がってきます。

 

◯作品を購入することに抵抗ありませんか

ありません。

 

◯作品を飾ることで生活に変化はありましたか

絵を見ながら考え事をすると、よいアイデアが生まれることがあります。 

美術館やギャラリーには、年に数回程度行きます。家が大きくないので、すごく小さな作品が欲しいです。

いま、リモート会議で、作品がチラリと映り込むと興味を持ってもらえて褒めていただけるのが嬉しいです。話題づくりにもなるので、作品を買うことおススメします。

 

◯ギャラリーへ望むこと(カメリアでなくとも)

入りやすい雰囲気であってほしいです。

 

 

以上

 

 

せっかくの連休に、ご実家に帰れない日々かと思いますが、どうぞお元気にお過ごしくださいね。ほんとうにどうもありがとうございました。

 

 

 

 

 

小島敏男  

 - 略歴のかわりにFacebook小島敏男ページ「彫刻のこと 小島敏男」2019512日より転載させていただきます。

 

 

 

【個展の案内に添えた「ことば」に就いて】

 

 バッハの「フーガの技法」を聴いた時、曲の美しさと、その作曲法の隔たりにとても驚きました。感傷を排した崇高な響き、それでいて自然な、気持ちが静かになる美しさ、それが対位法という作曲形式の様々な約束事に則り、私達が「自由な表現」と考えるものとは違う制約の中で作曲されている、これは何だろう、と。私の「Fuge」への最初の興味は制作の方法論でした。

 事前に定められた方法論に則って制作する。「フーガの技法」で彫刻は作れないか?そう考えました。結論から言えば元々、音楽の素養が無く、五線譜も読めない私には、偶々、古本屋で手に入れた一般向けの新書の解説書※1すら手に負えず、また音という時間の中で過ぎて消える表現と、ものとして動かない表現の違いもあり、この考えはすぐに断念しました。少なくとも「フーガの技法」を彫刻に応用する事は出来ません。

 イサク・ディネセンの短篇集「冬の物語」の中の一節に以下のものがあります。※2

「アクセルはじっと滝を見ていた。苔と岩のあいだの光る柱のように、昼も夜も、その美しいかたちを変えずに保っている。中略十年後にまたここにきてもこの滝はかわらず、調和のとれた不滅の芸術作品のように、おなじかたちを保っているだろう。しかも、毎秒ごとに新しい水の粒子が崖の縁を越え、断崖を流れ落ちては消えてゆく。その動きは逃走、渦巻き、絶え間のない破局だ。

 アクセルは考えた。人生で、これとおなじような現象があるだろうか?これに対応する、矛盾をはらんだ存在の形態、平衡を保ち、古典的で不変な逃走のかたちはあるか?音楽にはそれがある。フーガと呼ばれる形式だ」

 この一節に出会って私は再び「Fuge」に就いて考えるようになりました。「Fuge」を制作の方法論としてではなく、作品のあり方、人の生のあり方、として考えることです。

 

 ところで「Fuge」とは何でしょう。前掲の解説書によると「フーガという楽語は広い意味での<模倣様式で書かれたすべての音楽作品>をさしている」との事。模倣様式とは先行する音(旋律やリズム)を追行する音が再生する様式。ディネセンは滝の流れる水の不変の形に、「Fuge」の先行する音を追走する音が再生する、その反復を見たのでしょう。

 

 「Fuge」は遁走曲と訳されています。ディネセンも「逃走のかたち」と書いています。しかし私は「逃げる」という言葉は使いたくありません。そう、それは「過ぎゆく」のです。再生と変奏、その反復、人の生もまたそのようなものではないでしょうか。それは大きな、やがて緩やかな時の流れを作り出していく。その中ですべてのものが「不変であり、過ぎゆく」のです。ひとりの作家の仕事は生きる時代の反映、反響に過ぎないとしても、その流れの中で仕事をしたい、作品はその流れの中に在りたいと願うのです。

 

 もう一つ、私には彫刻らしきものを作り始めた時から考え続けている、「私の前に『立ち現われ、遠ざかる』イメージ」の問題があります。私と私が見ているものとの隔たり、近くと遠く、あちらとこちら、といったことです。これらについては断片的であるにせよ、展示の折や、この「彫刻のこと」でも書いてきた積りです。今、私はイメージの問題と「Fuge」の在り方を絡めて再び「彫刻の制作の方法論」へ、と考えていますが、その目論見は未だ残念な事に、形になってはいません。しかしこの二つは決して懸け離れたものではなく、同じ場にあると言うのが今の私の根拠のない確信なのです。

 

 

 

不変であり

過ぎゆく貌(かたち)を

立ち現われ

遠ざかる態(さま)を

もとめて。

 

 

 

1「フーガ」

マルセル・ビッチ ジャン・ボンフィス著 

文庫クセジュ 白水社

2「冬の物語」

イサク・ディネセン著 横山貞子訳 

新潮社

 

 

 

小島敏男の仕事

https://www.facebook.com/kojimatosio/

 

Gallery Nayuta

https://www.gallerynayuta.com/

 

 

 

 

 

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