法輪寺にて
5月になると、私の母校では毎年3年次の学生が専攻毎に分かれて古美術研究旅行に出かける。奈良に点在する古寺などを巡って仏教美術を学ぶ2週間の学外集中講義だ。私の時には法輪寺が含まれていた。古寺などに特段興味ない浅学の身、この寺が近隣の法隆寺や法起寺とともに7世紀ごろの日本の仏教の中心地として隆盛をみた斑鳩の古刹の一つであることを後に知る。
法輪寺への訪問は十一面観音菩薩立像など飛鳥・平安時代の仏像を見るのが主な目的だったように思うけれど、連日の巡礼疲れというより宿舎での飲み会疲れのため、講堂でのご住職の講話も耳に入らずにぼんやりしていた。ふと左側に目をやると額に納められた色紙が柱に掛けてある。短歌のようなものがひらがなで書かれていたけれど情けなくも半分ほど読めない。ドローイングのようにも見える文字を解読しようと、折角の講話をふいにしてスケッチブックに写した。後日、東京にもどって調べるとこう書いてあった。
くわんのんの
しろき ひたひ に
やうらく の
かけうこかして
かせわたる みゆ
(筆者の読解)
漢字文に変換すると「観音の白き額に瓔珞の影動かして風渡る見ゆ」。歌人は東洋美術史を研究し、後に早稲田大学で教鞭を執った会津八一。彼が初めて奈良を訪れた明治41年、27歳の時に詠まれたとされる一首。
法輪寺には八一の歌碑があることから色紙も八一自身になるものだろう。すべてひらがなで書かれているため漢字文よりもゆっくりと詠むことになる。黙読する調べの上でも歌の内容を把握するにも、それに要する時間が大切である。漢字による表記が、読む速度と同時に行われる情報収集とその理解を促進するものだとすれば、文節ごとに分けられたひらがな表記の八一の歌では、心の中で詠み進める調べとともにゆっくりと時間が流れる。脳裡に立ち現れる情景世界へと誘う美しい仕掛けのようにも思える。
それを美術作品に出合う時のことに置き換えてみた。何を描いたものかということがすぐに分かる絵は現実に即して描かれていることが多い。でも、私たちは、謎めき茫洋として夢にでも現れそうな光景が展開されている絵に対しては少し時間をかけて見ている。作者のことや描かれた世界について想像している。見ると同時に求めようとする分かる分からないという了解や合理的な内容理解ということではなく、ここではない別の世界を思い浮かべたり想像したりしているのではないか。思いを馳せ、かかわりを持たせ、自分自身と出合わせているのだろう。そのとき、少しのあいだ絵の前に居ることを私たちは忘れている。
さらに一歩踏み出せば、画面の向こうに無尽蔵にある未知なるものとの交感が進み、忘れることができない体験になるかも知れない。そんな出合いは日々の暮らしの中では些細なことだけれど、美術作品の前に立つその刹那にこそ美術作品の創造性の全てが濃縮されているのである。かけがえのない時間ではないのかと思う。
くわんおん の
しろき ひたひ に
やうらく の
かげ うごかして
かぜ わたる みゆ
(一般的な表記)
112年前、緑陰透かして薄日さす講堂の観音菩薩立像前に佇んでいた若き八一。彼の脳裏に一瞬想起されたかも知れない光景、それは今もこの歌を詠む私たちの内にある。
2020年5月13日
大野正勝(川崎市市民ミュージアム 館長)
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美術作品であれ詩であれ音楽であれ、または書でも舞踏でも表現したものに出合うこと、自然災害や人災、幸運な出来事に出合うことも、人と人との出逢いも衝突も別れも、起きていることにはすべて意味があって、起きたときに気付いて立ち止まるのか、気が付かず流すのか、人それぞれの受けとめ方があるのだろうと思います。
このたびのCorona Virus Disease2019ことCOVID-19、大野さんは文中で触れていませんが、だからこそ、どう受け止め、どう行動していくのか、末尾にあるように"かけがえのない時間"をこれまで以上に折々で意識していきたいと感じました。大野さん、ありがとうございました。